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瀬戸内海の歴史

瀬戸内海の歴史

(1)海運を中心に展開される瀬戸内海の歴史

 瀬戸内海は古来より、交通の大動脈となっていました。
縄文時代以来7世紀前半まで、日本列島の交通体系は、瀬戸内海の航路を中心に組み立てられていました。その後、律令国家は陸上交通を基本にした七道の行政単位を定め、駅家などの整備を進めました。しかし、8世紀になると、物流はまた輸送力で勝る海上交通に移行し、瀬戸内海は再び中心的な交通路としての役割を担うこととなったのです。それ以来現在まで、瀬戸内海は日本の中枢的な国土軸を構成してきました。
具体的には、古代における瀬戸内海は、北部九州(大宰府)と畿内(難波津)の2つの拠点を結ぶ主要な航路としてその役割を果たしていましたが、それに加えて、大陸文化の流入においても、朝鮮や中国への使節(遣唐使・遣新羅使)が畿内(難波津)から目的地に向かう際に利用する重要な交通路となっていました。
そのため、大和朝廷は瀬戸内海一帯の港や船の整備に力を入れ、遣唐使および遣新羅使の航路である難波津から武庫の浦、明石の浦、藤江の浦、多麻の浦、長井の浦、風速の浦、長門の浦、麻里布の浦、大島の鳴戸、熊毛の浦、佐婆津、分間の浦、筑紫館へと続く諸港が開かれました。

天平年間(729〜748)には、行基により、ほぼ一日航程の間隔で、室生泊、韓泊、魚住伯、大輪田泊、河尻泊の5泊が開かれ、古代瀬戸内海航路の基盤となりました。
律令制においては、貢納物の積み出しは国津に限られていましたが、平安時代になり荘園制が発達するとともに、瀬戸内海航路は公租の運搬や荘園年貢の輸送の動脈として、また、大陸との交易の主要ルートとしてなお一層の繁栄を見ましたが、それに伴って海賊も横行しました。このころの主要な港は、室津、韓泊、魚住、大輪田、河尻、方上(片上)、那ノ津(福岡)、牛窓、児島、敷名、長井浦、風早、熟田津などです。

平安時代末期になると、平清盛が日宋貿易のため大輪田泊に経ケ島を築くなど、瀬戸内海航路を整備しました。清盛はその他、牛窓、敷名の泊(沼隈町)の港の整備や音戸の瀬戸の開削も行ったと伝えられています。
また、室町幕府は応永8年(1401)から17年にかけて6回、永享4年(1432)から1世紀の間に11回の遣明船を派遣し、日明貿易を行いました。「入明諸要例」(応仁2年:1468)には、500石から2,500石の船が門司、富田、上関、深溝、揚井(柳井)、尾道、鞆、田島、院島(因島)、牛窓に配され、遣明船として用いられていたと記されています。
これらの時代を通じて、瀬戸内海の航路は、大阪湾から関門海峡までの山陽側の航路でした。
大阪湾の主な港としては、時代や貨物の種類により変化はありますが、難波津、川尻、兵庫、堺、尼崎、天保山、雑喉場などがあげられます。大阪湾を出て明石海峡を通過した船は、室津、牛窓、鞆などに立ち寄り、上関海峡を抜け、下関に至ったわけですが、その間にはいくつもの町が風待ち港、潮待ち港として発達しました。

 江戸時代になると船の往来はますます頻繁となり、瀬戸内海の海運は黄金期を迎えます。河村瑞賢は、寛文12年(1672)に西廻り航路を開発し、日本海の佐渡小木、能登福浦、但馬柴山、石見温泉津から、下関、大坂、太平洋の志摩畔乗(安乗)、伊勢方座、紀伊大島等を寄港地として整備しました。
江戸時代の中期には大坂と蝦夷を結ぶ北前船が登場し、それ以降、沿岸の港に立ち寄らず瀬戸内海の中央を抜けていく沖乗り航路が発達しました。この航路は鞆から地乗り航路と分かれ、弓削島、岩城島、木ノ江、御手洗等の芸予諸島の中央を貫いて、津和地、上関で合流するルートをとるものであり、これに沿って弓削島、御手洗などに風待ち、潮待ちの港ができ、新たに町も形成されて活況を呈していきました。
当時の船は、千石船(150トン)と呼ばれるような大型船もありましたが、いずれも一枚帆に追い風をはらみながら航行する構造であったため、強い季節風や暴風雨を避けつつ、順風を待つための「風待ちの港」を必要としていました。同時に、船は潮の流れも利用して航行するため、上げ潮や下げ潮を待つための「潮待ち港」も必要だったわけです。
江戸時代になると、将軍の代替わりごとに朝鮮から朝鮮通信使が派遣されることになり、慶長10年(1605)から文化8年(1811)にかけて計12回朝鮮通信使が来朝し、延べ約400名の朝鮮使が瀬戸内海の港町を通っていきました。
さらに、江戸時代には、遠浅海岸や内湾を利用して大規模な新田開発が進められ、そこでは米、麦をはじめ、綿、藺草、菜種油、大豆等の商品作物が盛んに栽培されました。特に、綿作は新しい農村工業としての木綿機業の発達をもたらすとともに、商品経済の発展を促しました。この綿作の肥料となったのが北前船で北海道から海送されたニシンの〆め粕でした。これら産物は、千石船、弁財船によって全国的に運ばれました。大阪が経済拠点として発展したことに加え、西廻り航路の開設もあいまって、瀬戸内海も全国的な流通経済の中に組み込まれ、瀬戸内海海運時代の最盛期を迎えることになりました。
明治期に入っても10年代までは北前船等帆船が用いられ、江戸時代の航路もほぼ維持されていましたが、蒸気船や機帆船の登場や、明治20年代の山陽鉄道の整備などにより、かつての帆船時代の寄港地は徐々に衰退していき、「瀬戸内の港は、まるで水から引きあげた切花のように凋んでしまった」と言われるほど寂れていきました。
一方、都市周辺では、江戸時代の木綿機業の蓄積の上に繊維業を中心とする軽工業が発達し、さらにその後、化学工業、造船業等、海への依存度の高い産業が徐々に勃興して、戦後の臨海部を舞台とする重化学工業化に向けての準備がなされたのです。

(1)歴史的みなとまちが豊かに息づく瀬戸内海の港湾

瀬戸内海には、ある所では石積みの防波堤や雁木などのかたちで、また、ある所では古い港町の一部として、歴史的な港湾施設やそれを中心とした歴史的環境が残っており、港の中、町の中に、豊かな歴史が脈々と息づいています。
さらに、港と町が一体となった歴史的港町も、規模の大小はあるものの、瀬戸内海には各地に残っており、倉敷(岡山県)、坂越(兵庫県)、鞆・竹原・豊町(広島県)、柳井(山口県)、笠島(香川県)など、著名な港町が多々あります。中でも、倉敷、竹原、豊町、柳井、笠島の町並みは、文化庁の重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、今では観光地として多くの人々が訪れたり、また、日常生活の中での地域住民の憩いの場となっています。

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