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瀬戸内海の歴史

戦の路としての瀬戸内海(源平合戦)

 保元の乱(1156)以後、平氏が源氏にかわって瀬戸内海の治安を取り締まるようになり、平家は隆盛を極めました。しかし、平清盛が後白河法皇と対立、法皇を幽閉したのをきっかけに平氏を倒す動きが起こり、治承4年(1180)源頼朝、木曽義仲が挙兵。源平合戦がはじまりました。
各地での戦いの後、平家一門は京都を落ち、福原(現神戸市)の旧都にもとどまれず、大宰府(現福岡市)で陣容を整えて讃岐の屋島(現高松市)に移ります。その後、源氏と義仲との内紛に乗じて福原に戻ってきましたが、元暦元年(1184)に一ノ谷(神戸市須磨区)の戦いで義経に破れ、ふたたび屋島に戻りました。さらに、文治元年(1185)の屋島の戦いでも破れ、長門彦島(現下関市)に移ることになります。そして同年、壇の浦の戦いで紀伊熊野海賊や伊予河野氏を見方につけた源氏が、水軍勢力により平氏に勝利。破れた平氏は、全国に散らばり、各地で様々な落人伝説を生むこととなりました。


須磨寺にある源平の庭(兵庫県)


壇ノ浦の源平船合戦(山口県)

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